福島の子どもと浜岡の子ども



田舎で生まれた電気が、都会に運ばれていく
 今年6月23日の朝刊に、「被ばくした福島の子どもたちが東京で健康診断!」という記事が掲載されていた。健康相談会は港区芝公園で行なわれたのだが、福島市内で最高レベルの線量が測定された小学校に通う小3の子どもの母親に、記者が聞いた話が載っていた。「目の下のクマが気になります。先月末には鼻血と下痢があったし・・・・」小児科医の診察後、母親は再び記者のインタビューを受けた。「医師からは、『福島に戻らないように。住み続けると、19歳までに発ガンする可能性がある。早ければ、1年後に発症する』と言われた」と、目を赤く腫らして答えたそうである。 

 別の記事には、小学校の女性教員のこんなコメントが載っていた。「私たち教員は立場上、大きな声で『子どもを学校に通わせるな』とか、『校庭を使わせるな』ということは言えません。なぜなら、国が年間20ミリシーベルトまでなら子どもが被ばくしても大丈夫と公言してしまったからです。長崎大学や広島大学の教授までもが、『外で遊んでも大丈夫』という声明を出していて、そういった資料が私たち教員にも配布されているので、それに基づいて動かなくてはならないのです」


 「でも、校庭の植え込みや水溜りなどでは、かなり高い数値の放射線量が計測されています。とても、『安全です!』と言える状況ではないのです。本当は、『この地を離れて!』と子どもたちに言いたい。でも、公に言うことはできません。せめて、新学期の再開を遅らせてくれれば・・・・と願っていたのですが、それもかないませんでした。なんとかしたいけど、何もできない・・・・。教員の多くは、罪悪感を抱えながら子どもたちと接しているのです」。子どもたちの身を案じる女性教師の悲痛な叫び声が聞こえてきます。


 しかし、子どもに年間20ミリシーベルトまでの被ばくなら大丈夫だと、よくも平然と言ったものです。本当に、「責任者出て来い!」と叫びたくなる。それに、長崎大学の教授らの悪い噂はいくどとなく聞いていますが、彼らの「大丈夫論」や「問題ない」発言は、いったいどのような根拠があるのでしょうか。無知なのか無責任なのか、そのどちらかだと思います。放射線被ばくには個人差というものが大きく影響します。浜岡原発の下請け作業員だった島橋伸之さんは、1991年にわずか29歳の若さで白血病で死亡したのですが、彼が10年間で浴びた放射線量は50ミリシーベルトに満たなかったそうです。他の人には問題ない数値も、ある人には死へと誘う被ばく量なのです。


   私自身も長い原発渡り鳥の暮らしの中で、高放射線エリアでの作業を何度となく体験しましたが、10数年間で浴びた総線量は50ミリシーベルトを少し超えた程度でした。それなのに、放射線の影響をもっとも受けやすい子どもたちに、年間20ミリシーベルトまで浴びても大丈夫だとは、よく言えたものだと感心します。 

 過去にくどいほど書いたのですが、浜岡原発では2009年の夏に駿河湾地震が発生し、5号機が異常な揺れに見舞われました。この地震の直後、浜岡原発の正門近くに建つ中部電力の社宅から、子どもたちの姿が消えたそうです。知り合いの作業員に聞くと、地震後の数日間は5号機内部はてんやわんやの状態で、燃料プールの水はあふれ放射能漏れ事故もあったとのことでした。このとき、かなりの量の放射能が排気塔から放出されたのですが、子どもたちへの放射能の影響を本気で心配した親たちが、我が子を安全な土地へ避難させたようでした。


 親のその気持ちはよく理解できます。それに、この話は噂の域を出ていません。しかし、地元で盛んに囁かれているこの噂がもし事実であったなら、自分の子どもだけを安全な地に逃がして、周辺住民には何も説明しないという姿勢はどんなものでしょうか。心の痛みはないのでしょうか。それから、浜岡原発周辺で暮らしている子どもを見ていると、本当にこんな土地で子どもを育てて大丈夫だろうか、親たちは平気なのだろうか、と思ったことは何度となくありました。


 原子力発電所の社員がもっとも放射能の影響を知る立場にあります。恐怖の放射能と何十年も関わらなければいけないプレッシャーから、「うつ病」病みの中電社員はとても多いと聞いています。今年5月から浜岡では全基停止しているのですから、病んでいる社員の症状はかなり軽減しているのではないでしょうか。きっと、永久停止を望んでいる社員もいることでしょう。御前崎市内には、「ガン多発地帯」と呼ばれているホットスポットもあるのですが、漂い流れてくる放射線量も停止後はゼロに近いだろうと想像されます。それから、母親と共にどこかに避難したという噂が事実なら、子どもたちも停止の吉報を受けて社宅に戻ってきたのではないでしょうか。




                                           2011年12月31日