住民のエゴ!
もちろん、浜岡原発の立地する一握りの御前崎市民が造ってくれと陳情に行っただけで、5号機建設が本決まりになったわけではない。しかし、もっと原子炉を増やしたいと考えていた中電にとっては、渡りに舟だったことは間違いなかった。土地の人の後押しは増設の弾みとなり、5号機建設計画が立案された。新号機建設をめぐって、地元の人々の間で賛否の議論が沸騰していた頃、あるニュースが日本中を駆け巡った。1995年1月17日の早朝、あの驚天動地の阪神大震災が起こったのだ。テレビ画面では、神戸市内の高速道路やビルが倒壊した様子が連日流され、さすがに原発立地の優等生と言われた旧浜岡町民も不安を感じ、5号機反対の意見が多数を占めるようになった。それに浜岡原発の立地場所は、やがてやって来る東海大地震の震源域のど真ん中と盛んに噂されていた。これで5号機建設案は流れるだろうと、反対派の住民の中からも楽観論が囁かれるようになったが、実際はそのようにはならなかったのだ。 40年以上昔の、この地がまだ原発誘致の候補地だった頃のことだが、当時の旧浜岡町の人々は、中部電力のお膳立てした集会で学者を名乗る人物からこのような話を聞いた。「これからは、月へも人類が自由に行ける時代になる。科学の進歩は日進月歩であるから、いまは危険だと恐れられている放射能も、スプレーをかけただけで中和され無害になる薬品が必ず開発されます。だから、もし不幸に被ばくしても、すぐに治りますよ」・・・・と。あるいは、別の日にはこのような説明も受けた。「放射能もガンも、あと10年もすればみんな解決しますから・・・・」このような子供だましの嘘を偉い人が平気で言うものだから、素朴な地元の人々は信じてしまったのだ。 浜岡原発1号機の建設が始まったのは1970年のことだが、中部電力は原発予定地であった佐倉地区の土地を、その当時1反(300坪)あたり5万から10万円だったのを、160万円から180万円で買収した。大盤振る舞いであった。その結果原発成金が大勢誕生し、彼らは土地を売った金で住居を建て直したり、車を何台も購入したりした。原発の敷地となる土地を売った佐倉地区の一部の住民だけが潤ったのだが、その周辺に土地を所有している地主らは、ただ黙って指をくわえていたわけではなかった。中部電力や協力会社の社宅や社員寮建設地として、購入してくれるように交渉したのだ。地元民を懐柔する必要があった中電は、要請されるままに大盤振る舞いを行ない、原発周辺の広大な土地を購入した。そして、漁民に対しては巨額の漁業補償金が支払われた。 砂丘の町浜岡は、地域の活性化をスローガンにし、過疎化に歯止めをかけるために原発を受け入れた。そして1号機の建設が始まると、多くの地元住民が雇用され、全国各地から集まった工事関係者で民宿や飲食店がにぎわい、地元の土建会社に巨額の金が落ちた。原発景気で町全体が湧いたのだ。町内会で旅行やイベントを行なえば、中部電力が積極的に資金を補助してくれた。中電は、地元の有力者を接待して飲ませ食わせの毎日だし、頑固な反対派には原発内の清掃などの仕事を請け負わせて口を閉ざさせた。何度も援助してもらうとそれがあたり前のようになって、やがては住民のほうから飲み代をタカったり補助金を要求するようになり、そのため地元の人々はいっそう中部電力に依存するようになった。原発に異論を唱えるものは、アカではないかと後ろ指を差され、ひどい場合には村八分にされた。
1号機の運転開始は1976年3月。その翌年には早くも2号機の建設が始まったのだが、2号機建設の時には用地買収の必要はなかった。中部電力は1号機建設の時に充分な土地を手に入れていたので、漁民との交渉だけで良かったのだ。それに対して、住民から不満の声が上がった。原子炉を増やすたびに漁民には補償金が出るのに、今回は住民たちは一銭ももらえない。それでは不公平だという声が沸騰したのだ。危険な原発を容認する代償として見返りを求める気持ち、つまりたかり体質が地元住民の中に生まれていたのだ。さっそく地元の人々は、中電との交渉窓口として、「原子力発電所佐倉地区対策協議会(通称・佐対協)」を立ち上げた。そして、3号機建設が立案された時には派手な反対運動まで行なった。この反対運動は、本当の意味での新号機建設反対ではなかった。中部電力から金を引き出すための条件闘争だったのだ。
そして4号機建設の時にも、地元住民の代表だと唱える佐対協は地元への協力金を要求し、中電本社に役員が出向いて億単位の金を受け取った。そのあと、このコーナーの最初の頃に書いた5号機建設へと進んでいくのだが、突然発生した阪神大震災によって、5号機建設に待ったが掛かった。原発反対の気運が住民の間に高まると、佐対協も反対派に同調するような動きをとった。しかし彼らの取った行動は、5号機建設反対を声高に叫んでも見せかけだけであった。その立場は原発推進で一貫していた。原発に依存している限り、彼らの懐には莫大な金が転がり込んできた。だから、次々と増設してもらわねば困るのだ。彼らの行動が巧妙だったのは、外部からの応援部隊を入れないことだった。「外人部隊は入れるな!」というスローガンの元に、応援部隊が反対運動に加わろうとすると、容赦なく排除した。彼らの反対運動は、中部電力に対して自分たちの立場を良くするためであり、5号機はどうしても建設してもらわねばならなかったのだ。 従順な原発立地の優等生として有識者や学者、あるいは他県の人々からバカにされている地元の人たちだって、心の底から原発は怖いと思っている。御前崎市民の中で、原発事故の不安を感じていない者はおそらくいないだろうと思う。強気な発言を繰り返している中電の社員だってそうだろうし、市の職員や推進派の市議だってそうだし、佐対協の連中だって心の奥底ではそうだろうと思う。皆、放射能は怖いのだ。そして多くの住民たちの本音は、原発のないわが町を望んでいる。しかし、それを声に出して叫ぼうとはしない。推進派の嫌がらせを恐れている者もいる。それに、「放射能よりもズッと怖いのは、人間関係を悪くすることだ」という地元の人もいる。「安全とか、将来の町の姿とかも大切だけど、隣近所との関係を悪くしてまで反対を叫ぶわけにはいかん。それに、地震で原発は壊れんと、中電が言うとる」という人もいる。具体的な知識を持ち合わせていない住民も多い。中電から、「原発から放射能が漏れることは絶対にない」という説明を受け、信じ込む人も実際にいるのだ。 原発に反対の立場を取る人たちにはさまざまな圧力が加えられました、と「浜岡原発を考える会」の伊藤実さんは言う。かなり以前のことだが、この「浜岡原発を考える会」では、慶応大学の藤田祐幸助教授を招き講演会を催したことがあった。藤田助教授は、浜岡原発で働いていた労働者の被ばく問題に関わるなど、常に原発の危険を訴え続けてきた学者だが、この講演に参加したすべての人が中電にチェックされていたのである。「飲食店の経営者も何名かいたのですが、そうした店は中部電力関係者の出入りが禁止されました。そうすると、経営が成り立たなくなります。だから、気持ちの上では原発反対でも、商売のことを考えると反対の意思表示をしにくくなります。中部電力のブラックリストに乗るのが怖いんです」と伊藤実さんは語っていた。 それに、家族を養っていくために浜岡原発関連の仕事をしなければならない人も多数いる。それだけ、この地域の経済は、浜岡原発を切り離して考えられなくなっているのだ。御前崎市民にとって、浜岡原発の存在はとてつもなく大きく、地元の人々の依存度は高い。だから、原発に危機意識を抱いて反対運動をしていた人々も、生活のために運動ができなくなり、多くの人が口を閉ざしてしまった。 2010年11月29日 |
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