原発ジプシー!


 
        天下の奇祭、桜が池のお櫃納め。
 9月22日に「浜岡原発を考える会」の伊藤さんから電話があり、翌日の23日に愛知県岡崎市から学校の先生と生徒さんたちが10名ほど来るので、何か話をしてくれないかということでした。その日は秋の彼岸の中日で、伊藤さん宅のすぐ近くにある桜が池で、お櫃納めの行事が行なわれる日でした。毎年多くの見物客が訪れるため、桜が池周辺は交通規制があるので、23日の昼過ぎに歩いて桜が池に向かった。いまにも、雨が落ちてきそうな天候である。この季節には毎年、新野川の土手や桜が池に向かう参道に彼岸花の真っ赤な花を散見できるのだが、今夏の異常な暑さのせいで開花が遅れているらしい。 


 桜が池神社で少し時間をつぶしたあと、伊藤さん宅に向かった。約束の1時に到着すると、生徒さんたちはすでに来ていて、これから伊藤さんの話が始まるところであった。愛知教育大学附属岡崎中学校から来られた男性の先生1人に9名の生徒たち。私は、このような話に関心を抱くのは男子生徒が主だろうと予想していたが、予想を裏切ってすべて女子生徒でした。レベルの高い学校らしく、どの子も利発そうな顔立ちをしている。御前崎市には午前中に到着し、先生と共に2時間ほど原子力館を見物したあと昼食を済ませ、伊藤さん宅に来たとのことでした。伊藤さんのわかりやすく丁寧な話が終わったあと私が喋る番になったのだが、子供たちを引率してきた先生は、2時にはここを出発しなければいけないとかで、結局私の話はできないままになってしまった。それではと、私のホームページアドレスを教え、この日話す予定だった内容をホームページに載せることにした。そして後日、岡崎市に帰ったあと見てもらうことにしたのである。


 私は、浜岡原発で5年余り働いていたのだが、原子力発電所で働いていた経歴は浜岡だけではなく、その前にも30歳代の頃、昭和50年代に10年間近く原発の仕事に携わっていたことがあります。その当時はある特定の現場で働いていたわけではなく、定検工事で各地の原発を渡り歩いていた。最近ではそのような人々のことを「原発ジプシー」と、いくらかの侮蔑を込めて呼ぶそうだが、その頃まさに私はそのような生き方をしていたのだ。ジプシーのような浮き草のような生活を始めて2年目のこと、佐賀県にある玄海原子力発電所で働いている時に、原子炉の炉心部に入ることになった。炉心部とは、ウラン燃料を燃焼させる場所である。核分裂を引き起こし、その膨大なエネルギーでタービンを回転させて電気をつくるのだが、ウラン燃料を燃焼させる場所だから、他とは比較にならないぐらいの高放射線エリアである。そこに入って、原子炉内の傷の有無を調べるロボットを取り付けるのが、私に与えられた仕事だった。


 実は、その日、原子炉内に入ってロボットを取り付ける作業は他の人が受け持っていた。そして取り付けは完了したのだが、ロボットが外部からの操作に反応しないというアクシデントが起こった。炉内の壁面には無数の小さな穴が等間隔に開いていて、その穴にロボットの6本(だったと思う)の足が入り移動する仕組みになっている。しかし、どうも足が完全に正規の位置に入っていないようだというのが、取り付け作業を監督する立場にある社員たちの結論だった。足が完全に入っていない状態だというのが本当なら、そのまま放置しているといつ落下してもおかしくない。落下すると、数千万円と言われている精密機械が破損することになる。だから、そうなる前に正規の位置にロボットをセットするために私が急遽入ることになったのだ。


 原子炉近くのエリアで、炉心に入るための装備の装着を始めた。装着するために、2名の作業員が手伝ってくれた。すでに作業着は2枚重ねて着ているのだが、その上から紙製、ビニール製のタイベックスーツを着用し、エアラインマスクをかぶり、首の部分、手首の部分、足首の部分など少しでも隙間の生じる恐れのある個所を、ビニールテープでぐるぐる巻きにされた。ゴム長靴をはき、足には靴下4枚を履くという慎重さだ。そして、手には綿手袋の上にゴム手袋を3枚重ねてはめ、その上に軍手まではめている。それだけ手袋を重ねて付けると、指を自由に動かしにくくなるが、被ばくを最小限に食い止めるためには仕方ないことだった。まるで宇宙服のような装備の装着が完了し、いよいよ炉心部に向かうことになった。私が移動すると、エアラインのホースがその長さだけ伸ばされた。エアラインによって衣服内を空気が循環しているので、少しも暑さを感じることはなかった。


 炉心部周辺に到ると、そこに2名の作業員が待機していた。日本非破壊検査という会社の社員たちだったが、驚いたことに、高放射能エリアだというのに彼らはごく普通の作業着姿だった。マスクさえ付けていないのだ。その中の責任者らしい人物が私を手招いた。彼はマスクの中の私の目を見たあと、大きくうなずきを繰り返した。私の目を見ることによって、炉心内の作業に耐えられるかどうか判断したのだろう。その彼と共に原子炉に近づいた。この時に初めて原子炉本体を目にしたのだが、直径3メートルほどの球形もしくは卵形をしていて(原子炉の大きさには記憶違いがあるかも知れない)、私たちの立っているグレーチングよりも少し高い位置にあった。原子炉の底部は私の肩ぐらいの高さだったから、1・5メートル弱といったところだろうか。その底部にマンホールがあった。マンホールは開いていて、そこから中に飛び込むだろうことはすぐに理解できた。


 日本非破壊検査の作業責任者は私の肩を抱き一緒にマンホールに近づいた。マンホールの入口ぎりぎりまで顔を近づけ、見上げるようにして中を覗いた。内部は薄暗く空気が濃厚によどみ、まるで何か邪悪なものでも住み着いているような印象を受けた。私の表情はこわばった。かすかに恐怖心を抱いたのだ。マンホールに近づくに連れて耳鳴りが始まり、入るのを拒否しているように感じられた。内部を覗き目を凝らしてみると、社員の指差す壁面にロボットが取り付けられていた。その取り付け方が不完全なので私が入ることになったのだ。しかし、内部は何とも不気味な雰囲気が漂い、この場から逃げ出したいのを必死でこらえていた。いくら嫌でも、入るのを拒否できる立場ではなかった。探傷ロボットの形状は一辺が40センチほどの正方形で、厚みが20センチぐらいだろうか。数本の足がついていて、遠隔操作で足を交互に穴に差し入れながら移動し、破損個所を探す仕組みになっている。非破壊検査の社員連中は、そのロボットを「蜘蛛型ロボット」と呼んでいた。


 とても驚いたことだが、日本非破壊検査の社員はマンホールの入口間際まで顔を近づけるというか、どうかすると内部に顔の3分の1ぐらい差し入れて覗き込んだりして、熱心に私に説明している。この頃はまだ、労働者の放射線の危険に対する認識がかなり好い加減な時代だったが、一緒に内部を覗きながら私は、この社員さんの大胆な行動を危惧したものだった。この人は平然と覗き込んでいるが、恐怖心は湧いてこないのだろうかと思ったものだった。私の装備はほぼ完全な状態だったが、彼は半面マスクさえも装着していなかったのだ。最近の話になるが、ほんの数年前のこと、浜岡原発で非破壊検査の仕事を長くしていた労働者が顎のガンにかかった。彼の同僚たちは、放射線を浴び続けることによってガンに侵されたのだろうと噂しあったが、中部電力は浜岡原発での作業とガン発症の因果関係を認めようとしなかった。それに同僚たちも、後難を恐れて彼の病が原発での作業ゆえという発言を控えた。中電に睨まれるのを嫌ったのだ。


 この人は裁判に持ち込んで闘ったが、結局、裁判にも破れ、顎から絶え間なく血を流しながら無念の思いを抱いたまま死んでいったと聞いている。この事例を取り扱った静岡市の鷹匠法律事務所の大橋昭夫先生は、あの件はいま考えても浜岡原発内での作業が原因だったと確信を持っていると、悔しそうな表情で語っていました。30年も昔のこと、初めて炉心に入る私のために、マンホールに顔を近づけて説明してくれていた日本非破壊検査の社員さんの顔面には、目に見えない放射線がいっぱい突き刺さっていたに違いなかった。私よりもいくらか年上の人でしたが、もう生きていないのではないだろうかと、この文章を書きながら思ったものでした。炉心近くにいて装備をつけないのは我々の無知も原因しているのですが、放射線の恐ろしさを作業員に教えようとしない電力会社の姿勢も大いに問題があるのではないだろうか。


 


 
     国道150号線から正門横のPR館を望む。
 私たちは原子力発電所で働くにあたって、必ず安全教育というものを受けます。でもこの安全教育では、放射線が危険だとはいっさい教えてくれません。たとえ放射線を浴びる現場であっても、人体にまったく影響のない程度だから安心して働きなさいと教えてくれるだけです。いまだって同じです。浜岡原発で受講した安全教育でも、放射線の恐ろしさに関してはいっさい教えてくれなかった。反対派の連中がいろいろ言っているが、あんなことは全部嘘なんだから聞いたらダメだ。真に受けたらダメだ。「原発は安全なんだから!」という教育を繰り返し繰り返し受けて洗脳され、そして現場に入るようになります。このような安全教育のあり方にも大いに問題があるようです。


 話を戻すことにします。炉心内部での作業の説明を詳しく受けたあと、いよいよ入ることになった。マンホールの真下に踏み台が置かれ、マンホールの斜め下にしゃがんで待機している私に対して、非破壊検査の社員が大きくうなずいて合図を送った。私は立ち上がると、頭を低くして踏み台に上がり、体を伸ばして上半身をマンホールの内部に突っ込んだ。その瞬間、グワーンという感じで何かが襲いかかり、頭が激しく締めつけられた。すぐに耳鳴りが始まった。恐怖と闘いながらマンホールの縁に両手を置き、勢いをつけて内部に全身を入れた。耳鳴りがいっきに激しくなった。ある作業員は、炉心に飛び込んだ直後に蟹の這う音を聞いたらしい。「サワサワサワ・・・・」という、まるで蟹が這っているような不気味な音は作業を終えたあとも耳元から離れなかったそうです。それどころか定検工事が終わり、地元に帰ったのちもこの音から解放されず、完全にノイローゼ状態になったとのことでした。この話を伝え聞いたあるライターが彼を取材し、体験話をヒントにして推理小説を書いたそうです。その本のタイトルは、「原子炉の蟹」。1981年出版のこの本は、その当時我々の間でかなり話題になりました。


 私の場合は蟹の這うような音は聞こえなかったが、頭を激しく締めつけられる感覚と、かなり早いテンポの読経のような響きがガンガン耳奥で響いていました。原子炉内部に飛び込むと急いで立ち上がり、薄暗い中でロボットを両手でしっかりとつかみ、「オッケー!」と大声で叫んだ。するとロックが解除され、ロボットの足が穴から飛び出た。ロボット本体は、思っていたよりも重くはない。足の位置を正確に穴に合わせ、再びオッケーと合図を送った。カチャリと足が穴に差し込まれた。うす闇の中で慎重にすべての足が穴に入っているのを確認すると、再度オッケーと叫び、あわててマンホールから外に飛び出た。その間、費やした時間は約15秒。私が逃げるようにマンホールから外に出ると、責任感の強い日本非破壊検査の社員は、またもやマンホールに顔を近づけてというよりも、顔の上半分を内部に差し入れてロボットの位置の確認をしていた。眼球ガンという病があれば、彼は容易くその患者となる資格を有しているように思えた。


 急いで炉心部から離れ、防護服を着脱するエリアに入った。防護服はいちじるしく汚染されているので、脱ぐのは慎重であった。ゴム手袋を何枚もつけた作業員がぐるぐる巻きにしたガムテープをハサミで切ってくれ、タイベックスーツと呼ばれている防護服は2名の作業員によって慎重に脱がされた。そのあとタイベックスーツは、裏返しに折りたたまれたまま素早くビニール袋の中に入れられた。タイベックスーツ内は、エアラインで空気が送れ込まれていたので比較的に涼しく、ほとんど汗をかくことはなかった。半ば放心状態でアラームメーターを取り出してみると、最高値を記録できる200のアラームメーターで、180余りの数値を記録していた。たった15秒の作業で、180ミリレムという信じられないような高放射能を浴びたのである。


 この当時は、いまと違って放射線の数値はミリレムという単位が採用されていた。いまはシーベルトという呼び方をしているが、この当時の180ミリレムは、いまの18ミリシーベルトだろうか、それとも1・8ミリシーベルトだろうか。現在の単位であるミリシーベルトには、原発作業をやめる直前まで馴染むことができなかった。なぜ、ミリレムをミリシーベルトに変更したのか、その意図がよくわからなかった。数値を低く見せることによって、放射線被害を過少に思わせる電力会社の意図があるのだろう。この時の定検工事では1ヵ月余り作業に携わり、私はもう一度原子炉内に飛び込んだから、合計2度原子炉内作業を行なった計算になります。2度目に入った時も恐怖心を克服することはできず、同じように不気味な耳鳴りも体験した。


 話は変わるが、原子力発電所の作業員には年間被ばく量というものが決められていて、その数値を超えると原子力発電所で働けなくなる。つまり、定検工事で各地の現場を渡り鳥のように流れ歩くことができなくなるのだが、そうなると死活問題であった。そこでどうするかと言えば、アラームメーターの数値が0のまま現場から出てくるという方法を取るのだ。アラームメーターとは、自分が被ばくした数値を記録するものだから、放射線管理区域で仕事をするときには絶対に装着していなければならないと決められている。そう決められているのだが、自分の年間被ばく量を消費しないためアラームメーターを体からはずし、放射線の影響のない場所に置いて作業現場に向かうということも平然と行なわれていた。


 これは30年近く昔のことであり、私も何度かアラームメーターを首からはずして、放射線数値の高いエリアで作業を行なったことがある。これは、元請け会社の監督者の指示で行なうことがほとんどだった。そうすることによって、余分な放射線量が記録されないという利点はあるが、自分の体にとっては大いにマイナス行為だし、もちろん重大な法律違反である。私が実際に体験したのは1980年代の大昔のことだが、このアラームメーターをはずして現場に入るというやり方は、いまでも浜岡原発では平然と習慣的に行なわれているという話をたびたび耳にしている。これは、遥か昔の話ではない。現在の話なのだ。定検作業の時に、この伝統的なやり方を中部プラントサービスが常習的に行なっていると噂されているのだが、実際はどうなのだろうか。


 という話をわかりやすく、学校の先生や子供たちにおもしろおかしくする予定にしていた。内容的にも、炉心内での作業は中学生でも興味を持ってくれそうに思えたのだが、少し内容が生々し過ぎただろうか。




                                             2010年9月26日