健康ハイキング!


  横地城跡と丹野池(3月27日土曜日)


 
城跡のある山の全景。
 
横地城跡への登山道。


 


 麓の駐車場に車をとめ、「作市坂」を上って城跡に向かう。この城は数日前に向かった八幡平の古城跡と違って、山中に到るための車の通行できる道が確保されているが、あくまでハイキング目的で来ているため徒歩でたどることにする。急な坂道を上りきると、道は右と左に分岐している。標識を見ると、右側の道が二の丸から本丸に向かうようになっている。二の丸に向かう途中、「金玉落しの谷」という卑猥な感じのする地名の谷があって、年寄り夫婦が谷底を覗き込んでいた。ここは、実は城兵の戦闘訓練の場所でした。兵士が谷底で膝をついて待機していると、太鼓を合図に金の玉を谷底に落とし、その玉を捜しあてた者が褒美をもらえたと伝えられている。


 この城の歴史を簡単に述べることにします。横地氏の始祖は、源八幡太郎義家の庶子家永と伝えられ、家永以後代々横地太郎を名のることになる。同族の勝間田氏と共にしだいに領地を広げていき、最盛期には大井川から浜名湖周辺までを勢力下に治めていたのだという。1467年に京都で勃発した応仁の乱はこの遠江の地にまで波及し、横地氏は勝間田氏と連携して駿河の太守今川家と対立する。しかし1476年、戦上手であった今川義忠の攻撃によってまず勝間田城が落ち、それから程なくして横地城も今川の大軍に包囲され、7昼夜に渡る戦いののち遠江の名門横地氏は約400年の栄光の歴史の幕をとじたのでした。勝間田城、横地城との合戦に勝利した今川義忠は、その凱旋の帰路に塩買坂のあたりで横地の残党に不意を襲われて落命した。彼の墓はその近くの正林寺にある。


 
金玉落としの谷を覗き込む夫婦。
 
二の丸に建つ横地神社の鳥居。


 金玉落としの谷を過ぎると、二の丸が見えてきた。ここには明治になってから横地神社が建てられ、今川との合戦に敗れて滅んでしまった横地一族の霊を祀っています。二の丸下の斜面には井戸跡があり、覗いてみると清らかな水が溜まっていました。それから、この二の丸の裏手から落城当時の焼米が出土したとのことでした。横地神社の前のあたりは広場になっていて、千人以上の兵士が集合することができたことから、「千畳敷」という地名がついている。尾根伝いに「一騎駆け」と呼ばれる細い道が伸びていて、標高100メートル前後の山頂部に各曲輪(くるわ)が築かれている。横地城は、東曲輪と中曲輪と西曲輪の三つの主要な曲輪から構成されていて、このような城郭を連郭式山城と呼んでいる。


 
尾根伝いに伸びている「一騎駆け」の道。
 
本丸の金寿城には文助山という地名がつけられていた。
 
本丸の北側。平地の中央は井戸の跡。
 
一騎駆けの道を抜けると茶畑が見えてきた。


 一騎駆けの道をたどって行くと、東曲輪にある「金寿城」と呼ばれていた本丸が見えてきた。戦時にはこの場所が防衛の要であり、軍議が盛んに行なわれていたのであろう。本丸の南側は絶壁に近い要害だが、比較的になだらかな地形である北側には数段の構えや掘り切りが設けられ、防御の強化をはかっている。若いアベックが、試しに南側の斜面を下っていたが、途中で下りることも登ることもできなくなって立ち往生していた。木戸跡を通り抜けて、北側の斜面に回ってみると、桜の花が7部咲きくらいだった。確かに、城跡には桜の花がよく似合う。特に古城跡にその感慨を深くした。桜の花を眺めていると、以前訪れた吉田城跡を思いだした。あそこの桜もあと数日で満開になるだろう。ぜひ、今月末頃には訪ねてみたいものである。


 勝間田城跡では途中から雨に祟られて、一騎駆けの道を引き返した覚えがあるが、今日は降雨の心配がないのでどこまでもたどってみることにした。横地城の一騎駆けの道も、勝間田城跡同様に牧の原台地に向かっている。この道は、戦時には脱出口として利用されていたのではないだろうか。アスファルト道が未舗装の道に変わり、道幅もしだいに狭くなってきた。更にしばらくたどっていると牧の原台地に出た。先ほどまでの険しい山並みは一変し、このあたりはなだらかな山容を見せている。茶畑のほとりで腰を下ろした。暖かい日差しを受けながら途中のコンビニで買ってきたおにぎりを食べたあと、道を引き返す。


 
横地氏一族の館跡。
 
横地氏の菩提寺であった三光寺跡地。
 
横地氏ゆかりの墓石群。
 
 始祖である横地太郎家永の墓。


 「詰めの城」という標識が見えたので、鬱蒼とした杉林の中のうす暗い道をたどった。この道をたどる人は滅多にいないのだろう、城跡を訪れた人に出会うことはなかった。詰めの城跡に出た。平坦な場所は茶畑になっている。道を引き返し、西の曲輪に向かう。このあたりは茶畑が多い。遠江守護斯波(しば)氏の館跡を過ぎると、横地一族の居館跡と推定されている「藤丸館跡」に出た。館跡の平坦な地も、いまは茶畑になっている。その近くには、館で使用していた隠し井戸というのがあった。険しい坂道を下っていくと、「三光寺跡地」があった。その周辺から横地氏ゆかりの墓石が多数発見されたそうだが、土地の人々によって1ヵ所に集められ、私が訪ねた時には花が供えられていました。そのあと、麓の道を通って駐車場まで戻った。駐車場に到着したのは4時でしたから、3時間余り城跡を徘徊していたことになります。見所の極めて多い、横地城跡地でのハイキングでした。



  丹野池


 


 横地城跡から帰る途中に丹野池の標識が見えた。ちょっと寄ってみることにしました。駐車場に車を停めて車外に出ると、日がかげり始めたせいで大気がかなり冷たくなっている。あわててジャンバーを着用する。説明書きによると、丹野池は昭和32年に完成した農業用ため池で、御前崎遠州灘県立自然公園の一部に指定されているとのことでした。茶畑への消毒のせいでしょうか、池の水は塗料を流したような不気味な感じのする濃いブルー色をしている。このような池で、魚は生息できるのでしょうか。池の一周は1・3キロとのことなので、ぐるりを回ってみることにする。


 
水上に張り出した散策用のデッキ
 
このような東屋がいたるところに設置されています。


 上の写真のように水上に張り出した木製の散策用のデッキや東屋が設けられていて、ゆっくりと歩きながら水の景観が楽しめるようになっています。退屈しないように、部分的にジグザグに造られているのも趣向を凝らしていて、製作者の熱意や意図が感じられて実に良いと思ったものでした。池という暗いイメージはなくて、この丹野池はからっと明るくて家族で楽しめる環境です。池の周囲をめぐる散歩道は、踏み心地のよい木製デッキから岸辺に上陸すると小道に変わり、清潔な東屋を通り抜けて再び水上のデッキの道へと変わります。


 
池の水は水路を通って下流の田畑をうるおしている。
 
丹野池下流の農村風景。


 この池の周辺には松と桜の木が多く、微風によって送られてきたさざ波がひたひたと岸辺を打ちつけている。青い色をした池の中に魚影は見られなかったが、数羽の水鳥が水面をすいすいと渡っていく。丹野池からあふれた水は水路を通って、その下流にある田畑をうるおしている。先ほどまでの山城めぐりは上り下りが結構あったが、池を周遊する道は平坦でいくら歩いても疲れを感じることはなかった。出発した駐車場に戻りついて時計を見てみると、丹野池の一周は約30分でした。比較的にゆっくりと歩いたので、普通の速度で歩けば20分ほどで一周できると思います。


 そのあと、上流に吊り橋があるようなので小道をたどって行った。杉林の中にぽつんと真新しい東屋が建ち、その少し先の谷川に吊り橋が架かっていました。水音の響きわたる中を渡ったのですが、よく揺れました。子供たちが喜びそうな施設です。その先にも山道は続いているのでたどって行ったが、結局行き止まりでした。いずれ、この先も散策路を延ばす計画でいるのでしょう。駐車場まで戻るとすっかりあたりは暗くなり、先ほどまで見られた行楽客の姿もいつの間にか丹野池から引き上げていました。私も家路をたどることにします。


 
水生植物の観察場所。
 
丹野池の上流に設けられている吊り橋。




                                               2010年3月31日