健康ハイキング!


  西山寺(さいさんじ)と小堤山公園(3月22日月曜日)


 朝窓を開けると、久しぶりに空は晴れ渡っている。まだ少し桜は早いのだが、こんな上天気の日に部屋にこもっているわけにはいかない。さっそく、出かけることにしました。最初に向かったのは相良の西山寺。825年の創建と伝えられるこの古い寺院には、この土地では有名な民話や伝説が2つも残されています。ひとつ目は、竜の彫り物が夜毎動きだして悪戯をしたという話です。江戸時代末期に左甚五郎の再来とまで言われるほどの腕の良い大工がいた。彼は江戸で社寺仏閣の補修や建設の仕事に腕を振るっていたが、あまりにも腕が良すぎて同僚の妬みをかうことになった。


 
西山寺の山門。
 
門の上部に掲げられている竜の彫り物。


 それが原因で江戸での生活が苦になり、郷里の相良に戻ってきた。郷里に戻っても仕事をするでもなく、毎日浜に出てぼんやりと海を眺めていたそうです。せっかく優れた大工の腕を持っていながら何もしないのは、まさに宝の持ち腐れと言えるでしょうが、気力や情熱を失った身ではノミを手にするのだって嫌だったことでしょう。いま風に言えば、完全に「うつ状態」になっていたようです。つまり、心が病んでいたのです。そんなある日のこと、その日も朝からぼんやりと海を眺めていた。ところが昼ごろになって、晴れ渡っていた空にいきなり暗雲が垂れ込め、いまにも一雨きそうな天候になった。


 風も出てきたので男が立ち上がって帰ろうとしていると、海中からいきなり竜が現われて天高く上っていった。相良沖には愛鷹岩(あしたかいわ)と呼ばれる岩礁があり、そこには竜が棲んでいると土地の人々に語られているのですが、その伝承の竜だったのでしょうか。とにかく、その姿をしっかりと目に焼き付けた男は駆け足で家に戻ると、先ほど目にした昇り竜を彫り始めたのだ。部屋にこもり続けること3ヵ月目に完成した竜の彫り物は、誰の目にも迫力満点でいまにも動きそうな力強さを持っていた。この竜の彫刻のおかげで自信を取り戻した男は、再び江戸に向かうことになった。その時に竜の彫り物は西山寺に奉納され、山門の上部を飾ることとなった。ところが、腕の良い大工の魂のこもった力作である竜の彫り物は本当に夜な夜な動き出し、その姿を見たという村人が続出したのです。


 竜の彫り物が西山寺の山門を飾るようになったのは、たまたま水飢饉の年であった。村のため池の水は残り少なくなっていた。水がないと、米も野菜も作ることができない。村人たちは寄り集まり、雨が降るまで少しずつ使用するようにしようと相談し合った。しかしどうしたことか、その数日後には一滴の水もなくなってしまった。水を盗んだ犯人捜しが始まった。すぐに、西山寺の竜が深夜にため池の水を飲んでいるのを見たという者が現われた。大切な水を飲み干されて怒った村人の中には、竜の彫り物を燃やしてしまえ!という者までいたが、結局、竜の目に5寸くぎを打ち込んで動けなくしてしまった。魂に封印をしたのだ。その後、竜が深夜に動き回って村人を驚かすことはなくなった。


 これが「西山寺の竜」の話で、土地の民話として長く人々に語り継がれている。しかし、この話には後日譚(ごじつたん)があって、その話を西山寺の住職が語って聞かせてくれた。竜の目に5寸くぎが打ち込まれて月日は過ぎ、明治時代となった。藤枝(だったと思う?)に眼病をわずらっている女性がいた。その人の夢に西山寺の竜が現われ、目に打ち込まれているくぎを抜いてくれたら、目の病を治してやろうと告げて消えたのである。その女性は、さっそく身内の者に手を引かれて相良の西山寺を訪れた。そして住職に夢のお告げを説明して、くぎを抜いて欲しいと願い出た。長い間、竜の目には五寸くぎが打ち込まれたままになっていたのだ。住職が半信半疑でくぎを抜いたところ、その女性は日を置かずして目の病が治ったそうである。


 
仁王像の安置されている仁王門。
 
仁王像。


 それから、この寺院には仁王像にまつわる話も残されている。遠い昔のこと、相良に仁王という名前のたいへんな力持ちがいた。この仁王があまり力自慢をするので、ある物知りが唐の国にはドウモコウモという世界一の力持ちがいると言った。仁王は怒り狂い、その男と力比べをするために海を渡り、唐の国まで行った。そして訪ね歩き、山の頂にあるドウモコウモの屋敷を何とか捜しあてた。ドウモコウモはたまたま野暮用で出かけていたが、彼の奥さんが現われて座敷に通された。寒い日のことだったので、その奥さんが片手で火鉢を下げてきて、座敷の中央にでんと置いて部屋から出て行った。仁王は、その火鉢を近くに引き寄せようとしたがびくとも動かない。力任せに引っ張っても無駄であった。


 仁王は青くなった。妻でさえこの怪力である。当のドウモコウモはどれほどの力の持ち主だろうかと考えると、恐ろしくなって全身に震えがきた。すでに、力比べどころではなくなった。命が惜しければ、この屋敷から早々とトンズラするしかなかった。仁王はそっと窓から脱出すると、転がるようにして走って逃げた。ちょうどその頃、ドウモコウモが戻ってきた。日本から仁王という男が力比べにきたと妻から知らされると、こしゃくな、ひねり潰してやろうと、頭から湯気を立てて座敷に向かった。しかし、仁王の姿はどこにもない。ふと窓の外を見ると、仁王らしき男が一目散に逃げている。おのれ、逃がしてたまるかと、ドウモコウモはあとを追いかけた。彼は逃げに逃げ、麓までたどり着いて後ろを振り返ると、自分の体の2倍はあろうかと思われる大男が怒りの形相凄まじく追いかけてくる。捕まったら八つ裂きにされる恐怖にかられ、再び仁王は逃げだした。


 そのあと海を渡り、駆けに駆けて郷里である相良に到着した。こんどこそもう大丈夫だろうと後ろを見ると、まだドウモコウモは執念深く追いかけて来ている。仁王は西山寺に駆け込み、涙を流しながら観音様に助けを請うた。観音様は仁王を哀れに思い、池のほとりにあるさるすべりの木に這い上がり、じっとしているようにと告げた。ドウモコウモは荒い息を吐きながら西山寺までやって来て、仁王の姿を捜した。すると美しい女性が池のほとりに立っているのが目にとまった。この女性こそが、観音様の化身であった。


 彼女はドウモコウモのほうを振り返ると、優雅な仕草で池を指差した。ドウモコウモが指先に目をやると、池の中に仁王がいるのが見えた。それは水面に写った仁王の姿だったが、そうとは知らないドウモコウモはあわてて池に飛び込んだ。飛び込んで捕まえようとするが、どこにも仁王の姿はない。ふと見上げると、仁王が木にぶら下がってこちらを見下ろしている。怒りで顔を真っ赤にしたドウモコウモが岸辺に這い上がろうとしていると、すばやく観音様は池に蓋をしてしまった。池は深く、足がとどかない。これではドウモコウモならん、と呟きながらドウモコウモは沈んでいった。


 
桃山風の建築様式で築かれた西山寺の本堂。


 これが「西山寺の仁王」の話です。このあと仁王はすっかりおとなしくなり、観音様のいる西山寺の門番をして一生を送ったと伝えられている。いま仁王門には、仁王の姿を忠実に再現した仁王像が立っている。ところでこの仁王像は、名工運慶の作であるという言い伝えが残されている。奈良東大寺南大門の仁王像を彫ったあの運慶である。それとも、別の運慶なのでしょうか。彫刻の傷み具合から判断すると、まだ新しい作品のように思われます。しかしこの仁王像は、口ひげをたくわえた口元をきりりと結び、苦みばしった顔つきをしたなかなかの男前です。ぜひ西山寺に訪ねて行って拝観されることをお勧めします。それから、仁王門の中には仁王像の他に伽王像(がおうぞう)というのが安置されている。この二つの像に関係した民話も残されているように思うので、こんど調べてみることにします。



  小堤山公園


 
初春の小堤山公園。


 そのあと、小堤山公園方面に向かった。公園の駐車場ではなく、その周辺も散策してみたかったので、小堤山の麓に位置している飯津佐和乃神社わきの駐車場に車を停めた。麓をぐるりと回り、泰盛寺内から墓地の石段を上がって小高い山の頂きに到った。墓参りの人の姿が多い。山頂には、古い石仏数10体が整然と祀られてあった。小堤山公園を含めてこの周辺には、近くの学校の生徒たちが自然観察目的でよく訪れるのだという。雑草に覆われている小道をたどっていると、明るく広々とした小堤山公園に出た。この公園の芝生広場にはジャングルジムや滑り台などの遊具が設けられていて、子どもたちの格好の遊び場となっている。それから夜間照明が設置されているが、どうやらグラウンドゴルフが楽しめるようでした。


 
桜に囲まれた泰盛寺本堂。
 
泰盛寺の裏山にある石仏群。


 小高い丘の上は展望台になっていて、相良の町並みや海が一望のもとです。日露戦争の記念碑や、石碑が数多く建っている。日露戦争の記念碑の台座は、相良油田で財を成した石坂周造が私費を投じて建てた灯台の一部だとのことでした。明治期に小堤山にあったその灯台は、上部を大風で吹き飛ばされたそうですが、御前崎同様にこのあたりも真冬には相当に強い風が吹きます。石碑は、この周辺各地にあったものをこの公園に集めたらしいのですが、その中には森町の人で、相良油田開発の功労者である村松吉平という人物の碑もありました。その碑文は、山岡鉄舟や高橋泥舟が書いたと記されていました。そしてその碑を立てたのは、日本の石油王と呼ばれている石坂周造です。


 
日露戦争の記念碑。
 
公園中央に建つ石碑の数々。


 それから、ここには宝泉寺という格式の高い寺院があったそうだが廃寺となり、その寺院の墓地だけが残っている。その中には相良藩主だった本多忠晴候の墓もあり、その周囲を取り囲むようにして彼の家臣たちの墓が建っている。その他には、現在小堤山の麓にある飯津佐和乃神社も昔はこの地に建っていたのですが、武田と徳川の合戦の際に兵火にかかって焼失してしまい、現在地に移転したとのことでした。現在の社殿は昭和10年代に再建されたのですが、古い形式を残した優美な建物です。


 
本多忠晴候の墓。
 
横穴遺跡の匂いプンプンの斜面。


 この小堤山公園には、縄文時代の横穴遺跡があるとのことでしたが発見することができなかった。遊歩道を延々とたどり、このあたりにほぼ間違いないという斜面を隈なく捜したのだが、無駄でした。おそらく、保存のために埋め戻したのだと考えられます。しかし隅々まで歩いたおかげで、この公園に何があるのかほとんどすべて知ることができました。思っていたよりも、はるかに魅力的に富んだ公園のようです。それから、この公園の南端には6世紀頃の古墳もあるとのことでした。そこから土器や勾玉などの副葬品が多数出土していて、出土品は牧之原市相良史料館で展示しているそうです。


                                                2010年3月27日


  追記


 3月22日にこの公園を初めて訪ねてから繰り返し来るようになり、3月28日の今日で4回目である。何か不思議な力に導かれてやって来ているように思えてならない。今日、この公園を訪れた目的は6世紀頃に築かれた古墳である。そこからは土器、勾玉、太刀、鉄製の鍬などの副葬品が出土し、古墳の一部が保存展示されているとのことであった。この公園の南側に位置しているとの情報があったので、そのあたりを重点的に捜し回ったが発見することはできなかった。そのあと隅々まで歩いて、思いのほか巨大な前方後円墳を発見することができたのですが、古墳があったのは想像もしていなかった意外な場所だったのです。


 
側面から眺めて、正面の高台が古墳だったなんて想像もできない。
 
コンクリートで塗り固めた部分が石室跡です。


 その場所とは、展望台になっている高台でした。しかし、公園整備のために貴重な古代遺跡を徹底的に破壊したものです。上部は完全に削平され、そして前方部の一部は遊歩道によって完全に分断されています。これが行政のやり方というものなんでしょうね。貴重な大型古墳を破壊したという後ろめたさがあったのでしょうか、古墳表示はどこにも見あたらなかった。石室も完全に破壊されていて、石室だったあとはコンクリートで溝のようなものが造られ、なぜか石がいくつか置かれていました。石室に使用されていた岩はどうなったのでしょうか。まさか、この古墳の麓に並べられている碑の石材として使用されたわけではないでしょうね。そうだとしたら、酷い話です。


 
公園の駐車場から墳丘を望む。
 
くびれ部分がはっきりと残っています。


 確かに現在だけでなく、戦国期にも多くの大型古墳が破壊された歴史がありました。水堀を周囲に張り巡らせた大型古墳は、砦や城として活用するのに申し分ない条件を備えていたようです。砦や城として転用されると土塁や掘り切りがつくられ、さまざまな用途を持った建物が建てられて古墳は大きく姿形を変えていったのです。豊臣秀吉の水攻めで有名な備中高松城は古墳に築かれた城郭でした。その話を聞いて城跡を訪ねたことがあるのですが、平野部に濠を掘り、その土で盛り土をした古墳上に築かれた城跡でした。大型古墳が数多く築かれた吉備王国にある前方後円墳なので、小堤山の頂きにあるものよりも3倍から4倍の大きさがありました。それから時代はかなり遡るのですが、九州大分県の宇佐神宮の本殿も古墳上に築かれています。その墳墓は卑弥呼のものだと言われて、一時期話題になったことがあります。


   とにかく、これ以上の破壊はやめてもらいたいと願うしかないみたいです。前方後円墳か否かを見分ける方法はいくつかあるのですが、側面を見る方法がもっともわかりやすいと僕自身は思っています。後円墳と前方部の境目には必ずくびれがありますから、それで判断します。備中高松城の場合には、東側には道路が走っていて完全に破壊されていたのですが、西側にはくびれ、造り出し、周濠などがほぼ完全な形で残っていました。それから、小堤山古墳の石室は海の方向を向いていたのですが、この墳墓に葬られた人物は、もしかすると南の地方から小舟に乗って渡ってきた海洋民族の末裔だったのではないでしょうか。古墳だった展望台から海を眺めながら、遠い昔のロマンに思いを馳せてみるのも良いのではないでしょうか。(模式図は、ウィキペディアより拝借)