健康ハイキング!


  油山寺と千鳥ヶ谷池(3月13日土曜日)


 今日は油山寺(ゆさんじ)に行ってみることにしました。県道37号線と386号線を通って掛川に出て、そのあと国道1号線に入った。車を走らせること10分余りで油山寺方面という標識が見えてきたので、1号線から下りて小川のほとりの農道を走った。交通量の多い通りは苦手なので、車のまばらな田園の中の道に入るとほっとします。標識に沿ってたどっていると油山寺の山門が見えてきた。この山門は、掛川城の大手門を移築したそうです。維新後の廃藩置県ののち、不用となった城内の建造物は取り壊される運命となったのだが、この寺院に移築されることによって破壊をまぬがれたのです。まさに、奇跡的に残った歴史的建造物ということができます。それにこの油山寺には、やはり取り壊される運命だった横須賀城の白書院と遠州浅羽の代官屋敷の一部が移築されています。それらの建物を見物するのも、今回の訪問の目的のひとつでした。


 
掛川城から移築された山門。
 
山門わきにスックと立つ「御霊杉」


 現在掛川城には、全国初の木造の天守閣が復元されているのですが、その時に大手門も新たに建設されました。当然のこと、油山寺に移築されたものとまったく同じ形をしているのですが、新たに建設された掛川市内にある大手門のほうが少し大きいのでは、という印象を受けたのですが気のせいでしょうか。この山門の右手には、「御霊杉(みたますぎ)」という霊木が立っています。伝説によると、この付近の里に貧しい夫婦者が住んでいた。その夫婦者の幼児が病にかかって死にかけているが、薬を買う金も医者に診てもらうお金もない。その時、この里の近くを通りかかった弘法大師が、夫婦の願いを聞き入れて法力によって子供の命を救った。夫婦は喜こび、夫は松で、妻は杉で一膳の箸を作って大師に食事をふるまった。大師は出立に際して、この箸を油山寺の門前に突き刺したところ、不思議にも幹が松で、枝葉が杉というめずらしい霊木となったと言うのだ。


 近づいてじっくりと見てみたのですが、確かに幹は松で、枝葉は杉のようでした。古木なので幹は大蛇の胴体のようになっていて、眺めているうちに相良町に残る「男神と女神の大蛇」の話を思いだしてしまった。昔掛川城の大手門だった山門をくぐって中に入ると、正面に青い屋根瓦の宝生殿が建ち、その左手の建物が横須賀城から移築された白書院です。もと代官屋敷にあった建物は宝生殿の右側に建っていて、いまは方丈として活躍しています。この寺院は、1300年前に行基菩薩によって開山された真言密教の古刹です。このあたりの谷から、油が湧き出したところから「油山寺」という名がついたと案内板に記入されていました。


 
祈祷、法話、座禅など宗教儀式の行なわれる宝生殿。
 
横須賀城から移築された白書院。


 広大な寺域内には、「しだのいおり」と呼ばれる自然の遊歩道が設けられています。落ち葉のふり敷く細い道をたどって行くと、立派な十三重の石塔や道のほとりに素朴な野仏の姿が随所に見られた。自然の中を歩くと、よく言われる森林浴の効果でしょうか、全身に生気の漲ってくるのを感じます。それから、こんな所に子供たちを連れて来たら喜ぶのにと思ったのですが、どこに行っても何をやっても離れて暮らしている子供たちのことを考えてしまうのが、すっかり習慣になってしまいました。弘法大師像を過ぎると自然林の中の道は谷間へと下って行き、そこから三重の塔や本堂に登る険しい石段の道が続きます。


 
自然林の中の道。
 
野仏がいたるところに見られました。


 寺域内を歩いていても参拝客と出会うことは滅多になかったのですが、本堂では年配の女性2人が本堂の周囲に設けられた通路に座り込み、柱にもたれてのんびりと寛いでいました。僕と目が合うとにっこりと笑みを浮かべたので、あいさつを交わしました。浜松から来られたというお2人は軽登山靴にステッキと、軽い登山でもするような格好だったのが印象的でした。本堂は重厚な、いかにも男性的な力強さを感じたのですが、源頼朝公が寄進したと伝えられている三重の塔は優美な女性的な姿をしています。その美しい姿に見とれてしまいました。


 
女性的な美しい姿をした三重の塔。
 
山頂に建つ油山寺本堂。


 山頂に建つ本堂と三重の塔を見物し終えたあとは、長い石段を下って天狗谷に出ました。ここは樹木が鬱蒼としていて、新緑の頃か紅葉の頃に来ると良いのでしょうね。この天狗谷には、「るりの滝」という滝業修行の場がありますが、749年に考謙天皇が目をわずらい、このるりの滝の水で目を洗浄すると全快したという話が伝えられています。そののち、源頼朝がやはり目の病で苦しんでいる時に、この寺院内に湧き出る霊水で洗浄したところ全快したので、三重の塔を寄進したという逸話が伝えられている。滝の水量はお粗末なものでしたが、そのわきで根をあらわにして伸びている杉の大木は実に見事でした。その力強さに圧倒されたものでした。


 
天狗谷のるりの滝付近。
 
ひっそりとした千鳥ヶ谷池。


 油山寺を出たあと、千鳥ヶ谷池に向かいました。この池は、静岡県の「水辺百選」に選ばれているそうです。自然の池ではなく、大きなため池なのですが、百数十年以上前に造られたと案内板に書かれていました。可睡斎から油山寺へのハイキングコースの一部となっていて、池の中央には浮き桟橋が設置されています。この池の周囲を散策する人影はなく、浮き桟橋の手すりには鴉が一羽とまって日光浴をしていました。近寄って行ったのですが、人慣れしているのか飛び立つ気配もみせませんでした。周囲約1キロの散歩道をたどったあと、久野城跡に向かった。



  久野城跡


 
久野城跡全景。
 
看板の建っているあたりが本丸です。


 油山寺や千鳥ヶ谷池の標識は随所に見られたのだが、久野城(くのじょう)跡を示す標識はまったく見あたらなかった。ハイキングやウオーキングの絶好の位置にあるのだが、古城跡というのは観光客に人気がないのでしょうか。やむなく土地の人に所在地を聞くことになった。「少し行くと、こんもりとした丘が見えるはずです」と言われた通りに、車を走らせていると前方にまさにこんもりと茶碗を伏せたような丘が見えてきた。しかし、そこに向かう道を捜すのがまたまた困難でした。簡単に見つからず、田んぼの中の細い道を行ったり来たりしながらやっと城跡のある丘の麓までたどりつけました。


 丘全体が城跡であるこの平山城は、現在整備の真っ最中でした。350年以上前に廃城になってから、時を止めたように草木の繁茂するままになっていたようですから、土塁や縄張りなどの遺構はその当時のままに残されています。周囲1キロにも満たない小さな城跡ですが、その当時周囲には水堀も設けられていて、その堀跡は埋められて田んぼになっていました。しかし、幅10メートル余りの堀の跡は、城の曲輪から眺めたらその形が一目瞭然です。この貴重な城の遺構を、ただの公園として整備するのではなく、その当時の物見台や柵などを忠実の再現して公開したなら面白いのではないかと本丸跡に立って思ったものでした。


 

 
本丸に続く道。
 
建物跡の発掘調査中でした。

 城跡入口の案内板には、「久野城の築城当時は、駿河に本拠を持っていた今川氏が遠江に侵攻するための拠点として、明応年間(1492〜1501年)頃に造ったと考えられている。歴代城主は久野氏と北条氏で、正保元年(1644年)に廃城になった。現在、城内には、「土塁」「堀切」「井戸」などが比較的に良く残っている。また小字名の「西堀」「南堀」などが示すように、城の周囲に水堀を備えていたようである。昭和54年10月1日に、市指定文化財に指定されるとともに、近年の発掘調査によって、屋根瓦や陶磁器などが発見され、徐々にその姿を現し始めている」と記されていました。


 城跡から下ってきて気が付いたのですが、駐車場わきに大きな自然石がいくつか積み重ねられていました。一瞬、石垣に使用されていた石?とも思ったのですが、その形の良さなどから判断して城館の庭に置かれていた石ではないかと思い直しました。おそらく、それが正解でしょう。近畿よりも西の地方では、初期の山城にしても要所には必ず石垣が築かれているのが普通なのですが、東国に位置するこのあたりでは城跡のすべてが土塁で縄張りされています。私は西のほうの地方の生まれなので最初の頃は、石垣を使用していない古城跡にもの足りなさを感じていたのですが、最近では土塁で築かれた城の遺構もいいなと思うようになりました。とにかく、西国にいても東国にいても、私のお城好きは変わらないということです。




                                               2010年3月19日