健康ハイキング!


  黒田代官屋敷と舟久保古墳(3月16日水曜日)



この代官屋敷の顔となっている長屋門。 
 今回訪ねたのは、旧小笠町にある黒田代官屋敷。自宅から30分弱で到着しました。ここは国の重要文化財である長屋門が有名ですが、実際に訪ねてみてびっくり。水堀に囲まれた広大な敷地内に、江戸時代末期に建てられた母屋や土蔵や米蔵などが見事に残されているのです。長屋門同様に母屋も国の重要文化財に指定されています。江戸時代には4千石の旗本、本多家の代官を務めていたのですが、源氏の血筋である黒田家は、16世紀頃からこの地の在地領主として大きな勢力を持っていたようです。


 室町時代からこの地に強大な勢力を有していた黒田家住宅はまさに城館です。残念なことに現在は母屋、土蔵、米蔵が解体修理中で内部には入ることができませんでした。3年がかりの工事とのことで、今年の10月には修理が終了し、一般公開されるとのことでした。その時を楽しみに待つことにしましょう。この屋敷の顔である長屋門もすっぽりと覆われていて、やむなく黒田家のホームページから上の写真を拝借して載せることにしました。代官屋敷前にある駐車場に車を停めて、「代官屋敷史料館」に入ってみることにした。入場料は、「歴史街道館」の入場料込みで300円でした。館内には代官屋敷に関する資料や、解体工事中の写真が展示されています。代官屋敷前の駐車場はデンタルクリニックの駐車場を兼ねているのだが、このデンタルクリニックの医師は、先の小笠町の町長だった黒田家の現当主のご子息とのことでした。


 
代官屋敷の周囲に張り巡らされた水掘。
 
周囲の水堀が、この家の格式の高さを語っています。


 室町時代から続く城館なんて存在は、全国的に言っても極めて貴重な遺構であります。いつまでもこのままの形で保存していてもらいたいものです。遊歩道を通って、水堀を見物して回る。お屋敷の背後は一面の梅園になっているのですが、史料館の人の話では、梅祭りの時には敷地内に一般の人々も入場できたとのことでした。周囲を巡ったあと、250メートルほど離れた「歴史街道館」に向かった。館内では、風景画を描き続けた地元出身の画家、杉山良雄氏の作品が展示されていた。園内は「塩の道公園」として整備されていて、アスレチックや鯉の泳ぐ池や花壇、展望台など、子供が喜びそうな施設が多数設けられている。そして園内の散策路には、この近辺の古街道の名前が付けられていて、その沿道の市町村の木が植えられているとのことでした。


 
裏庭の梅園が少し見えます。

 歴史街道館。


  舟久保古墳


 その次に向かったのは舟久保古墳。ここも、旧小笠町に位置しています(おそらく?)。高橋の交差点を左に折れ、県道244の広々とした農道を速度を落として走った。道路の左手は山並みが続いているが、その中に古墳があるのだと思われる。しかし、古墳入口の標識がどこにも見あたらない。道を引き返しても、見つけることができないのです。茶農協の前に車を停めて、もう一度地図で確認。すると、舟久保古墳の前のあたりを細い道が走っている。少し先の信号機のある交差点を左折し、その細い林道に入ろうとしたが道らしきものが見あたらない。ふと見上げると、林道は真上を走っている。正覚寺の駐車場でUターンし、再び244号に戻って正林寺の道に入り、やっと尾根道の林道を見つけることができました。かなり遠回りをしたが、あとは一直線です。


 
舟久保古墳の後円部分。
 
古墳からの眺望はすばらしい。


 曲がりくねった細い尾根道をたどって行ったが、ありがたいことに行き交う車に出会うことはなかった。一組の年配の男女が杖を片手にのんびりと散歩をしていただけです。茶畑に囲まれた、ハイキングに適した道でした。道を更にたどって行くと、左手に小さな土盛りが見えてきた。ここが目的地の舟久保古墳のようです。拍子抜けするほど小規模ですが、いちおう大型古墳でよく見られる前方後円墳の形をしていました。5世紀頃のものと言われていて、幅約6メートルの周溝をめぐらせていたそうです。左上の写真のように枯れ草に覆われた後円部の一辺は26メートルで、高さは3・5メートル。そして、前方部の長さは23メートルということでしたから、全体の大きさは49メートル+周溝の幅と言うことになります。


 一般的な前方後円墳に比べて、前方部がかなり短くてバランスが取れていないように思うのですが、まあ問題ないでしょう。円墳部分も、長い歳月の風雪によってかなり低くなっていたらしいのですが、完成当時に近い状態に復元するために、いくらか盛り土したと聞いています。その時、円墳部に造られているはずの石室はあらわになっていたのでしょうか。気になるところです。前方部は、完全に削平されて茶畑になっています。


 
舟久保古墳、全景。


 後円部には踏み分け道がついているので、頂上部に登ってみました。麓からの風を受けながら周囲を見渡した。この古墳からの展望はすばらしくて、その時代の権力者であった墓の主が、死後にこのような場所に葬られたいと願った心情がよく理解できました。古墳のわきには、車が2、3台停められる駐車場が備わっています。この前方後円墳が舟久保古墳群の中核的な位置を占めている、と案内板に記入されていたので、更に尾根道をたどってそれらしきものを捜したが発見することができなかった。



 八幡平の古城跡


 道を引き返し、塩買坂トンネルを通って新野に向かうことにした。この古道は小さな神社や祠が沿道のそこかしこに建っていて、「塩の道」と名付けられています。この道を北上すると「秋葉街道」にいたり、その先は信州まで延びています。かなり日は翳ってきたのですが、これから「八幡平の城跡」まで行ってみることにします。私の住まいから戦国期の城跡は、この古城跡がもっとも近いのですが、今回初めて向かうことになりました。想慈院の裏山にあたるとのことなので、とりあえず想慈院をめざすことにします。山間に建つ想慈院の駐車場に乗り入れ、「大手登り口」から向かうことにしました。


 
想慈院の背後の山が城跡になっている。
 
八幡平城近くを流れる新野川。
   
 
このような道が本郭である八幡平へと続いている。
 
ここが山頂の八幡平。


 この山城は、横地一族の新野氏が室町時代に築城したと言われている。戦国時代に入ると、徳川四天王の一人である井伊直政が幼少の頃、その当時の領主であった新野左馬助に助けられたという逸話が伝えられている。新野左馬助は、今川軍に従って浜松の引馬城を攻撃している時に討ち死にしています。信義の人であった彼の墓所は、城跡から1キロ余り離れた新野幼稚園の北側の茶畑の中にある。新野一族の勢力が衰えたあとは、武田氏が高天神城への戦略上の抑えとして、現在残っている遺構に築造したのだという。


 山道を登り始めたが、茶畑が終わるとほとんど直登の険しい上り道となった。落ち葉を踏みしめてたどる。しばらく上っていくと、道はふたつに分かれている。右へ行く道は本丸のある「八幡平」。そして、左へ行く道は「馬出し」と書かれている。馬出しの道をたどってみることにする。道は一段低い位置に造られていて、その側面にはえんえんと土塁が伸びている。中腹の細い道をしばらく行くと、「この先、通り抜けできません」の標識。その先にも古道が続いているが、藪が密集して進めそうにない。やむなく引き返す。あまり人が歩くことはないのだろう、土はやわらかく歩くとズック靴が土の中にズボッとめり込む。それに、落ち葉の積もった道の中央に水溜りもところどころに見られた。


 
尾根伝いの道。
 
掘り切りの跡。


 山頂を削平して築かれた「八幡平」に到着した。ここが本郭(ほんくるわ)、つまりこの城の本丸である。城の中心部であるこの場所に、物見櫓や城主の館などが建っていたことと思われる。倒木の上に腰を下ろして一休みしたあと、本郭から東側の山並みの頂きにある郭に向かう。尾根道がえんえんと続く。土塁や掘り切りの跡が良好な形で残されている。東側の郭を過ぎると道は杉林の中を徐々に下って行き、想慈院わきの登山口まで下って行った。古城跡をめぐっているあいだ人に出会うことはなかった。私は魅力的に富んだ城跡だという感慨を持ったが、遺構の少なさが訪ねる人の足をとめているのだろう。そのあと、同じ時期に造られた舟ヶ谷の古城跡を捜したが、発見することができなかった。




                                              2010年3月20日