健康ハイキング!


  能満寺と小山城跡(2010年1月31日、日曜日)


 朝からのあいにくの曇天で午後には雨の予報になっている。しかし、思い立ったが吉日で「健康ハイキング!」を今日から始めることにした。その最初の地に選んだのは、吉田町にある能満寺(のうまんじ)と小山城跡。小山城跡の南麓にある能満寺のソテツは、ネット情報によると日本三大ソテツの一つに選ばれていて、国の天然記念物に指定されている。それから、能満時にはこのソテツに関する伝説が残されている。その伝説によると平安朝の頃、陰陽道の大家として高名な安倍晴明が大井川に棲む大蛇を退治してこの地に封じ込め、その上にソテツを植えたところ大蛇の精を受けたのかあたかも大蛇のような姿になったという。このソテツは、「能満寺の大ソテツ」として遠州七不思議のひとつに数えられることもあります。


 
本堂の手前に見えるのが天然記念物の大ソテツ。
 
小山城跡にいたる石段。


 その他には、このような言い伝えも残っている。徳川家康が能満寺のソテツの見事さに惚れ込み、どうしても欲しくなった。時の権力者の頼みに住職も嫌とは言えず、近隣の百姓たちの助けを借りて掘り起こし、船に乗せて駿府城に運んだ。家康は大喜びして、城内にある屋敷の内庭の片隅に植えて毎日のように眺めていた。ところが数日ほど経って、毎夜、庭で人の泣くような声が聞こえるようになった。泣いていたのはソテツであった。側近の者らが調べてみると、「お寺に帰りたい。お寺に帰りたい!」と泣いていることがわかった。家康は気味悪がり、即刻ソテツを能満寺に送り返したという。


 


 能満寺の傍らから伸びている石段を登ればそこは小山城跡である。この古い石段はかなりの急勾配で築かれていて、事故予防のためかその横に最近つくられた「女坂」という緩やかなスロープが丘の上へと伸びている。女坂が、女性や子供の利用するための坂道だとするならば、昔からある石段は「男坂」と呼んでも良いような急坂です。手すりも付いていないので、もし足を滑らせたら大変なことになると考えながら上ったものでした。


 
史跡公園は桜の名所。
 
改装中の模擬天守閣。資料館になっている。

 城跡は公園として整備されている。この日が日曜日だったが、午後から雨の予報のせいか人影はまばらであった。犬の散歩に来た男性と、天守閣の西側にある白梅と紅梅の写真を撮りに訪れた人の姿があっただけだ。この城は、元亀2年(1571年)駿河・遠江進出をはかった武田信玄によって築かれたとのことだが、空堀の遺構や土塁などがしっかりと残されていて、戦国期の砦や城郭を知る上で貴重な史跡となっている。だが、現在改装中の3層4階の復興天守はあまりにも立派過ぎるように思う。実際には藤枝の田中城に現存しているような、2層ぐらいの物見櫓が見晴らしの良い高台に築かれていたのではないだろうか。せっかく来たのだから天守閣に登ろうと思ったのだが、外観だけでなく内部も改装中とのことで入場することができなかった。


 
三重堀の遺構
 
大手門。

 丘の上の遺構は思いのほかコンパクトで、桜の木が多く植えられている。この次は、桜の季節に訪れてみようと思う。三の曲輪西側の「三重堀」は、城の守りを固くするために三重の空堀が築かれたのだが、武田勢の守るこの城が徳川軍に攻め滅ぼされる直前には、城に篭もっていた女子供はこの堀に身を投げて自害したと伝えられている。その時に自害した女性の霊がのり移ったのか、この堀に棲むヒルは赤い唇をしていて、いまでもこのあたりに棲息しているのだという。能満寺の大ソテツが遠州七不思議のひとつに加えられることがあると先ほど書いたが、この城の悲話のほうがよほど遠い昔の歴史話として興味がそそられると思ったものでした。


 そのあと、三重堀の横手にある「資料館」に入ってみることにしたのだが、入口わきには「日曜日のみ入場できます」と書かれているのに、入口のドアにはしっかりと鍵がかけられている。カーテンの隙間から内部を覗いてみたが、誰もいないようであった。仕方なく空堀内にある、「勘助井戸」と表示された井戸跡を眺めたのち、大手門から麓の水路わきを通って駐車場に戻った。しかし、ハイキングにしてはあまりにも距離が短すぎるように感じられたので再び丘の上に登り、小山城跡の西側を歩いてみることにした。茶畑の中の道を30分ほど歩いたのち駐車場に戻った。でも、まだ時刻は1時過ぎ。雨のほうも何とか持ちそうなので、地図を見て勝間田城跡まで足を延ばしてみることにする。


   追記


 


 3月29日の月曜日、風はちょっと冷たかったが晴天だったので、桜の写真を撮りに午後から吉田城跡に行ってきました。桜は八分咲きといったところ。平日だったので人影は少なかったのだが、春休みに入ったばかりの女子高校生が数組、桜の花をバックにピースサインをしながら写真を撮っていました。この公園は、いつ来てもきれいに整備されています。模造天守閣のほうも新装なっていたので入館して展示物でも観ようと考えたのだが、今日が月曜日のせいで入口には無情にも休日の札が貼られていました。天守閣に登るのは、またこの次に・・・・ということにしましょう。


 
二の丸は桜の名所です。
 
新装なった天守閣。



  勝間田城跡


 小山城跡から勝間田城跡に向かう道路は簡単に見つけることができた。その県道を走っていると、城跡までの標識が随所に見られ、勝間田城跡に対する期待がしだいに高まってきた。この中世に築かれた城は、標高130メートルの山頂一帯に及んでいる。この城の歴史を簡単に紹介すると、城名となっている勝間田氏によって築かれたことが郷土史に記されている。勝間田氏の祖先は、源八幡太郎義家の血を引いた横地太郎家永の次男と言われ、横地氏と並んでこの地方きっての名族であった。


 勝間田氏の名前は1156年の保元の乱に登場し、その後320年余りに渡ってこの地に勢力を誇っていたが、応仁の乱の時に駿河守護の今川軍に攻められ、1476年の落城と共に名族勝間田氏は滅亡してしまった。落城のあとは、厳しい探索と殺戮が行なわれたのだろう。勝間田氏の一族や係累の者たちは、その後探索の目を逃れて現在の御殿場市まで落ち延び、その地で土着したという話が何かの書物に書かれてあったとかすかに記憶している。親族であった横地氏も、勝間田氏と前後して今川義忠に攻め滅ぼされ、遠州の大豪族であった両氏ともに歴史の表舞台から消えてしまった。


 
あの山頂に城跡があります。
 
城跡への入口。

 小山城跡から30分ほどで勝間田城の入口に到着した。麓の駐車場に車を止めて山道をたどった。いまにも降りそうな空模様だ。茶畑の中の緩やかな登り道を20分ほどたどって行くと、勝間田城の標識が見えて来た。道の両側は深い掘り切りになっていて、以前はここが防御の最前線で堅固な城門の築かれていただろうことが想像できる。茶畑はここで終わり、ここから先は杉木立ちの欝蒼とした、いきなり物陰から甲冑を着用した戦国時代の武士が登場して来そうなとても風情のある道をたどることになった。



三の曲輪跡。
 
三の曲輪から物見台の方向を望む。

 曲がりくねった細い道をたどって行くと、城門跡と三の曲輪跡と二の曲輪跡が見えてきた。土塁の上には以前は塀や木の柵が築かれていたのだろう。門の跡も想像していたよりもずっと狭い。人ひとりが通行するのがやっとの幅しかないが、いかにも実戦に適しているように思えた。敵が雪崩れ込んでくるのを食い止めるために、わざと狭くしているのだ。掘り切りの跡も土塁も良好なかたちで残されていて、物見櫓跡に立って眺めてみれば、往時の城構えがどのようなものであったのか偲ぶのは容易い。


 
物見台から二の曲輪、三の曲輪跡を望む。
 
本曲輪跡にて。


 いつまでも、このような遺構は残して置いてもらいたいものだ。掘り切りの跡も深く鋭く、急ごしらえの城でないことがわかる。籠城の時には、500名から7、800名ぐらいが城に詰めていたものと思われる。人っけのまったくない古い城跡を1時間ほど散策していると雨が落ちてきた。城跡の背後に広がる牧の原台地に向かう一騎駆けの道を、行けるところまでたどってみたいと計画していたが、これでは無理なようだ。午後からの降雨率は70%と今朝のテレビで言っていたが、今日に限って言えば良くあたっていたことになる。雨粒がしだいに大きくなってきたので、急ぎ足で城跡をあとにした。




                                                2010年2月2日