健康ハイキング!


  高天神城跡と吉岡弥生記念館(2月7日、日曜日)


 
高天神城遠望。

 今日で3日間連続のハイキングです。高天神城を訪れるのは今回で3回目ですが、いつ来ても戦国期に活躍したこの古城跡はわくわくする魅力を備えています。今回は、初めて大手口から登城してみることにしました。大手口からたどっても、この城が難攻不落の名城であったことが再確認できました。戦国時代の遠州の合戦の歴史は、この高天神城の攻防の歴史と言っても過言ではないと思いますが、この稀代の名城は過去2度の落城の憂き目にあっています。


 徳川方の遠州の要であったこの城を最初に落としたのは武田勝頼でした。武田勝頼は2万余の軍勢で高天神城を取り囲み、1ヵ月にわたる攻防の末に籠城兵の生命を助けるということを条件に、城主であった小笠原長忠を説いて開城させたのでした。その7年後の天正9年(1581年)、こんどは武田勢の籠城するこの山城を家康の軍勢が取り囲んで兵糧攻めにし、甲斐からの援軍もなくついに城兵が討って出て、城将以下全員が討ち死にしたのです。この城は2度落とされているのだが、そのどちらも力攻めによる落城ではないのです。


 
大手口からの登山道です。
 
土塁の遺構。

 大手口から城の中心部に向かう途中、ちょっと遠回りをして他の曲輪を見て回ったのだが、30分ほどで本丸跡に到った。本丸からの眺望は良く、正面に霊峰富士や雪を頂いた南アルプスの山々がくっきりと望める。合戦の時にはこの城を2万余の大軍勢が取り囲んだのだが、麓の敵兵の動きをここから正確に知ることができたことでしょう。本丸跡地を見物したあと、徳川方の大河内政局(おおこうちまさもと)が7年間幽閉されていた石牢に向かったのだが、そこに到る道は柵で遮蔽されていた。無断で柵を乗り越えて行って来た人がたまたま戻って来たので聞いてみると、復元された石牢は崩れかけていたとのことであった。「危ないから、行かないほうがいいですよ」とのことでした。


 幽閉されていた大河内政局の、その後の人生をたどってみることにする。城外に討って出た武田方が全滅したのち、徳川の将士が城内を丹念に調べている時に発見された彼は、長い幽閉生活で足がなえ歩行も困難な状態だったという。救出された彼は、痩せこけた悲惨な姿を大将である徳川家康の前にさらし、武田方による寝返りの説得にも屈せず武士としての節度を曲げなかったと涙ながらに訴えた。家康は大河内政局を褒め称えて恩賞を与え、温泉で治療させたという話が伝えられている。その後、彼は家康方の武将として数々の合戦に参加するようになるのだが、長久手の戦いで不運にも討ち死にしてしまった。


 
本丸跡。
 
本丸からの眺望は素晴らしい。

 


 城の中心部である井戸曲輪(いどくるわ)から堂の尾曲輪に向かう。このあたりは樹木が鬱蒼として、何となく不気味さを感じさせる。ここは、徳川方の武将であった本間、丸尾兄弟の戦死した場所であり、その付近に碑が建っている。歴史をひも解くと天正2年の6月、二の丸周辺の有力な武将であった本間氏清は配下の者約300名を率いて堂の尾曲輪を守備していた。この曲輪の大将であった本間の兜はよほど豪華だったのだろう、朝日を受けてきらきらと輝いていたそうです。敵兵である武田の鉄砲隊は、樹間を通してまばゆく輝いているその少し下を狙って火縄銃を発射した。狙いはたがわず、本間氏清はちょうど首の中央に鉄砲玉を受け、血を噴き出して絶命したのでした。28歳の若さだったと伝わっています。


 その実弟の丸尾義清は死んだ兄に代わって部隊を指揮し、攻め寄せる敵兵に対して獅子奮迅の活躍をみせていたが、その日の午後に胸のあたりを狙撃され即死した。この日、堂の尾曲輪ではたった1日で有力な武将2名を失うことになった。現在曲輪跡地に残っている碑は、本間氏の子孫が江戸時代になって先祖の霊を弔うために建てたと伝えられていますが、本間、丸尾の両家ともにその領地は僕が現在住んでいる浜岡の地です。これも何かの縁と思い、深々と頭を下げて合掌!


 
本間氏清、丸尾義清兄弟の供養碑。
 
高天神社の本殿。


 堂の尾曲輪から石段を上って西の丸跡に向かい、そこに建っている高天神社にお参りしたあと、本殿の横手から「犬戻り猿戻りの険」の入口にあたる馬場平に向かった。馬場平の展望台でリュックを下ろし、途中のセブンイレブンで購入した弁当を広げた。ここからの眺望は実に良く、松林の向こう側に遠州灘もくっきりと見渡せます。絶好の風景をおかずにして昼食を摂り始めたのだが、すぐに大きな話し声が聞こえ出し、やがて木々の陰から観光客数名の姿が現われた。仕方なく食べるのをやめて弁当をリュックの中に押し込んだ。そのあと、思い切って犬戻り猿戻りの険をたどり始めた。帰り道は搦め手口から下る計画にしていたが予定の変更です。


 この道は、武田方の軍監だった横田甚五郎が高天神城の落城を知らせるために単騎脱出したので、「甚五郎の抜け道」と呼ばれている。細く険しい道がえんえんと続いている。横田甚五郎は早朝この道を通って脱出したそうだが、藪や雑木の密集した暗い道では何度も断崖から転落しそうになったことでしょう。細い道の両側はまさに断崖絶壁であり、見下ろしていると吸い込まれそうな恐ろしさが襲ってくる。道は登り下り、また登る。このような細い尾根道というものをはじめて体験した。脱出する横田甚五郎にとって敵兵という存在も当然あっただろうから、並大抵の脱出行ではなかったと思われる。そのことも、この間道をたどってみて初めて理解できるのだ。


 
横田甚五郎のたどった犬戻り猿戻りの険。
 
林の谷池付近から高天神城を望む。


 尾根道の途中で、麓の「林の谷池」に向かう道が表示されていた。甚五郎の通ったであろう尾根道を更にたどってみたい気持ちはあったが、標識は麓の池を指しているので素直に従うことにする。池のまわりを半周して麓に到着。池のほとりに、高天神城と運命をともにした城主岡部直幸の碑が建っている。茶畑のほとりで食べかけの弁当を広げた。昨日と違って気温が高いせいで、犬戻り猿戻りの険を歩いている間にすっかり汗をかいてしまった。ジャンバーを脱いで弁当を食べ始めた。食べ始めてふと気づけば、正面にくっきりと富士山。左手には南アルプスの山々。何だか知らないうちに最高の環境で食事をしていたのだ。景色が素晴らしい、空気がうまい、セブンイレブンの弁当最高!このような場所で食べれば、どんな食事もうまいと感じるものです。




  吉岡弥生記念館


 食事のあと、元気いっぱいで「吉岡弥生記念館」に向かった。その道の途中に、「首切り源吾」で高名な渥美源五郎の屋敷跡という標識。そのあと、吉岡弥生さんの生家である鷲山医院の立派なお屋敷が目に飛び込んできた。下小笠川のほとりの田畑の中、大きく枝を張った椿の木の下に「千人塚」の小さな碑が立っている。籠城していた武田方の武将岡部直幸以下残兵700は、城外に討って出て全滅した。その時の城兵が、身分の高い武将も足軽クラスの者も一緒くたになって埋められているのであろう。それも甲冑は剥ぎ取られ、衣服も奪われた裸同然の格好で・・・・。ここでも、しばし合唱。この地に埋められたのは700名余であったが、土地の人々は千人塚と呼んでいるそうである。この合戦を最後に、高天神城はその役目を終えて廃城となった。


 
東京女子医大のキャンバスと吉岡弥生記念館遠望。
 
記念館内に建つ長屋門。


 東京女子医大の大東キャンバスには看護学部があるそうです。吉岡弥生さんの旧姓は鷲山と言い、実の父親はお医者さまでした。彼女は女医になるために東京に出て、九州の佐賀出身であるドイツ語教師の吉岡荒太と知り合って結婚し、のちに夫婦で協力して東京女子医大を創ったのですが、そのことが「吉岡弥生記念館」に展示している写真や展示品によって詳しく知ることができます。それからここには、弥生が生まれ育った生家が移築されています。座敷内には残念ながら上がれなかったのですが、土間から眺めても大きな屋敷だったことがわかります。入口に建つ長屋門は、明治期まで実際に存在していたのを復元したそうです。




                                               2010年2月15日